代表選出馬の決意(一揆から潮流へ)HOME ・代表選挙に際しての4大方針 ・候補者プロフィール ・私の考え方

<私が共同代表になった際には、現在のれいわ新選組における”マニフェスト”、つまり「れいわニューディール(衆21)」(参22)等における公約を原則的にすべて継承いたします。さらにこれに加え、以下を私独自の方針として、党の公約として掲げることを検討します>
財政/金融政策/税制 ・住宅政策 ・雇用/労働 ・自動車税制の改善 ・ヘイト規制 ・教育/文化
憲法問題(第9条) ・自衛隊/防衛 ・対米自立(在日米軍等) ・外交/歴史観
 ・核燃料サイクルの放棄(原子力政策)


<私の考え方>
 以下は、私の個人的な政治観を示すものであり、いかなる他者に対しても強制するものではありません。私の政治観は、私が現在までに刊行している著書、考察等によって広く知っていただけると思いますが、なにせ私の著作が単著だけで28冊と膨大(ぼうだい)であり、全てを読んでいただきたい、というのは至極(しごく)身勝手な理屈です。

 よって端的に、私がどのような政治的価値観を有しているかについて、広く知っていただくべく、以下に簡易に表記しました。

<政治とは?―自己責任論に抗する>
 私にとって政治とは、「社会的に弱い立場の人々を助け、救うべきシステム」であると定義しています。そもそも、人類が集団で社会体制を創ったのはなぜでしょうか。弱肉強食の古典的世界では、腕力の強い者だけが生き残り、そうでない者は淘汰(とうた)される―。のですが、果たして腕力の強い者だけが生き残ることは正解といえるのでしょうか。

 ただちに腕力が強くなくとも、人々にはそれ相応の個性があり、腕力の代わりに知恵や技術を提供すること等ができます。強い者だけが生き残る、という思想は結果的に共同体の利益にならないのです。よって人類は、歴史的に、立場の弱いものを共同体の責務として助けるシステムを考案しました。これがムラ、クニであり、やがて「国家」を形成したのです。

 現在にあっては、「腕力が弱いのであれば、代わりに何かを提供するべきだ」という考え方自体が否定されています。能力の有無にかかわらず、人間は生まれながらにして生きる権利と、人生を謳歌する権利を有するからです(天賦”てんぷ”人権説)。

 才能や能力のある人は、共同体が助けなくとも、勝手に活躍するでしょう。国家はそれを妨害してはなりません。しかし、努力したくともできない人、努力をしたくとも環境が整備されていない人、等々は、共同体の助けなくしてはその権利を全うすることができません。頑張りたくてもできない、活躍したくともできない―、そのような人々の助けになることを組織的に行う存在こそが「国家」です。そしてその国家を運営する方針全般を指すのが「政治」です。もちろん、そもそも人生において、必ず「何かを努力しなければならない」というの発想そのものが一種の脅迫観念かも知れません。

 政治とは、端的に言って「立場の弱い人々を、共同体の責務として救済するシステム」のことを指します。「立場の弱い人々は、生産性も弱いのだから、共同体として救済する意味がない」などと言う人もいますが、完全な間違いです。なぜなら、人間の価値は生産性ではないからです。何かを生産しなければ、その人の価値が無いとする考え方は、端的に「差別」であり、自分がたまたま強者に生まれたから、自分の環境が恵まれているからという「偶然」をことさら正当化するだけの「優性思想」の一種です。

 努力すれば必ず報われる―という主張が大手を振って歩いています。それを裏返せば、「努力をしないものは、報われないのだ」という「自己責任論」に直結します。もちろん努力は大事です。様々な経験や知識を貪欲(どんよく)に吸収することは、必要なことです。しかし、「人生は努力さえすればどうにかなる(自己責任論)」という発想は、これまた完全な間違いです。個々人の人生は、時の国際情勢や政治状況、経済動静によって大きく左右されるからです。左右されるどころか、ほぼ時の時勢状況で決定されるからです。

「自己責任論」を肯定する人に、私は常に以下の問いを投げかけています。

「1930年代におけるドイツに住むユダヤ人は、努力をすれば成功したのですか?」

 と。当然のこと、ナチ・ドイツはユダヤ人の絶滅政策を採り、何の罪もないユダヤ人を根絶やしにしようとしました。アンネ・フランクがさらに天才的な努力をしたとして、ユダヤ人の迫害は無くなったのですか?違いますよね。個人の努力ではどうすることもできない害悪が、人類史の中では存在します。つまり、社会における成功・失敗が仮にあるとすれば、その成否は「個人の努力とは別の次元にある」ものなのです。であるからこそ、私たちは社会のあり形について、公正・平等を意識しなければならず、それを司(つかさど)るものこそが「政治」なのです。

 成功した人は「運」が良かった部分が多分に関与します。逆の人は…?時勢が味方しなかっただけです。ならばそれは「個人の責任」ではありません。あなたの失敗のせいではありません。であるならば、その「損失」相当部分を、国家という共同体が補填(ほてん)するのは「当たり前」のことなのです。それが政治の本質です。

<政治姿勢について>
 私の政治姿勢は「保守」です。現在「保守」という政治的価値観は、様々な人々にあって勝手に使用されており、実際のところ何を示すものなのか良く分からなくなりました。「保守」という政治姿勢を様々な人々が「悪用」したために、「保守」というと、差別を肯定したり、中国や韓国といった特定の国々を嫌悪したり、進歩的なメディアを批判したりする人々―とされてしまいましたが、これらは本来の「保守」とは全く違うものです。

「保守」は、イギリスの政治家、E・バークによって体系化されたものです。バークは、フランス革命を観察し、それを『フランス革命の省察』としてまとめました。バークは、国王を武力で処刑するフランス革命の進展に危機感を抱き、「社会改良は、理性のみにとらわれることなく、それまでの伝統や慣習をある程度踏まえたうえで、ゆっくりと行われなければならない」と説いたのです。これが「保守」の始まりです。

 つまり「保守」とは、特定の国への嫌悪やメディアへの批判の有無とは関係がなく、社会改良への姿勢を指すものです。社会をより良い方向にすることは、当然のことですが、その過程は、わずか1日、2日では達成できません。まさに「ローマは一日にして成らず」であり、よりよい社会の実現のためには、じっくりと腰を据えた長期目標と、長い時間をかけた議論が必要である―という立場こそが「保守」の姿勢なのです。

 もちろん、衰退いちじるしい日本について、「待ったなし」の政策が求められるのは言うまでもありません。弾力的な時限目標を設定しつつ、一方では広く議論と国民意識の共有が必要とされるのは言うまでもありませんが、とはいえ社会をより良い方向に改良していくには、少なからぬ時間が必要であるという姿勢が私の「保守」の政治観です。

<愛国心について>
 国や共同体を愛する心…「愛国心」は当然あってしかるべきだと考えます。しかし近年、前述したような「保守」が跋扈(ばっこ)したことで、「愛国心」というのが、「国や政府を全部肯定すること」に置き換えられている印象を強く持ちます。これは異常なことです。

 国や社会に愛着を持つからこそ、その共同体の間違いや歪みについて「間違っている」と糺(ただ)すのが、真の愛国心であり、それを言うものこそが真の愛国者です。

 国や政府を100%礼賛することが「愛国心」であるとみなされているのは、はなはだ残念なことです。そういった姿勢は「愛国心」などではなく、ただの「既存権力への追従」であり、国家への忠誠というよりは、既存権力に良い顔をすることによって「いかに自分の仕事が増えるか」というソロバン勘定以外の何物でもありません。

 本当の愛国者であり、真に愛国心を持つのであれば、国や政府が間違ったことをしていると思ったのなら、それに対して毅然(きぜん)として「NO」を言うべきです。アメリカでは、マイケル・ムーアやオリバー・ストーンなどが、文化人の分野で特筆される存在です。日本でも、このように公然と政府方針に「NO」と言って活躍する文化人がもっと増えればよいと思います。ちなみに私が最も尊敬する文化人のひとりが、マイケル・ムーアです(『シッコ』SICKO を参照のこと)。

「国を思うからこそ、国や政府の間違った方針についてNOを言う」―、これこそが真の「愛国者」「愛国心」といえます。日本や日本社会を無批判に礼賛(らいさん)し、あまつさえ近隣諸国と比較して「日本はまだまだスゴイ!」「日本は韓国と比較すればまだまだ頑張っている!」等とする発想は、「愛国心」などではなく単なる「歪んだ自尊心の鼓舞(こぶ)」です。他の国と比較することでしか、自国の優位性を確認できないのだとしたら、そんな国に価値はありません。他国との比較優位で、自国の偉大さを語るのであれば、それはすなわち自国に主体的な魅力が存在しないと言っているのと同じであり、自家撞着(じかどうちゃく)だからです。このような発想は付け焼刃で大義がありませんから、必ず自滅します。

<経済について>
 私は修正資本主義の立場を鮮明にします。修正資本主義とは、市場における自由な価格の決定や、市場での民間企業の競争的姿勢を容認しつつ、資本主義の発展に伴い発生する格差等の歪みを、国家が積極的に介入して是正していこうとする考え方です。

 経済を、資本家の自由に任せている(自由放任主義)と、資本家は利益のみを追求するあまり、社会を良くしようとか、社会的正義や公平性を守ろう、などという発想を放棄します。これが進むとやがて経済は「強いもの」だけが生き残り、その主導権を寡占(かせん)することになります。

 これが平然と行われていたのが戦前日本と、世界恐慌(1929年)前の資本主義国です。このような社会の不公平を是正するために、既存の資本主義体制に対して、国家が何らかの介入をするべきではないかという考え方が生まれました。これがケインズ経済学であり、F・D・ルーズベルトによって実行された「ニューディール政策」です。

 修正資本主義の考え方は、現在広く受け入れられています。資本家は国家の規制が無いと、際限なく欲望を拡大させ、利潤をむさぼる傾向があります。これを規制するのが国家の役割であり、それを司るのが「政治」です。つまり経済における「政治」の役割とは、無限に拡大する人間の欲望に対し、適正なストッパーを設ける方法と実際を決定する”力”とも言えます。